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永平寺での修行(2/18)

いまから二十五年ほど前のことであります。平成六年三月九日。私は、福井県にあります大本山永平寺に修行の為に上山しました。
 一般社会に入学・入社があるように、雲水達、修行僧達の永平寺安居、安居とは一定期間そこに留まり集中的に修行することでありますが、毎年、2月後半から4月前半までに上山が許されます。この時期になりますと例年百名ちょっとの新しい修行僧が永平寺にやってまいります。最近は、少子化のため、去年は60名ほどの修行僧が永平寺に安居しました。学校を卒業した寺院のお弟子さんたちがほとんどでありますが、中には仕事を辞めて出家を志すもの、寺の住職ではあるのだけれども、永平寺に安居歴がなくて定年退職を機に、修行を志す60を過ぎた人、また、華道や茶道の家元など、とてもバラエティーにとんでいます。

永平寺の雲水になるには、あらかじめ僧堂に安居する志願状、掛搭(かた)志願状を提出して許可を得なければなりません。その許可を得て、「あなたは、この日に地蔵院というところに来てください」という通知がやってまいります。この地蔵院と言うところは、永平寺のすぐ門前にあるお堂であります。この地蔵院と言うところにまずおもむき、木版を三下します。三下したらそのままずっと外で直立不動にて延々と待ち続けます。早いと一時間ぐらい遅いと二時間ぐらいでしょうか。そこで係りの者が訪ねます。「尊公は此処に何をしに来た?」と、おのおの訪ねられるわけであります。たとえば、「道元禅師さまの法を学びにまいりました」なら、的を得ているのですが、中には、的を得ない回答があり、そのような回答をすると、「帰れ」などと言って長く立たされる者、または帰ってしまうものもいます。
地蔵院の中に入ると、すぐさま座布に座り、坐禅を始めます。そして、当日の上山者が全員集まると、荷物点検が始まります。余分なものは持っていないか、修行以外の一切の持ち物は全て取り上げてしまわれます。今現在は、いらないものすべて袋や段ボールに入れ自分の師匠のところに送り返されます。また多少の現金は、各自の口座を用意して、半年が過ぎるまで永平寺のほうで管理されます。
修行に来る時は、必要最低限の現金しか持ってきてはいけないことになっているので、ほとんどの人は、小銭ぐらいが残るのですが、中には、途方もない金額を持たされる人もいるようで、あきれてしまう人もいます。
雲水は、昔ながらの装束に身をかためて、上山します。
上山スタイルというものがあり、その身支度には、上げ手巾という、黒の衣をまくし上げた着方があります。そして、足に脚絆(きゃはん)、手には手甲(てっこう)、そして、素足にわら草履。頭には、網代笠、肩には、袈裟行李(けさごうり)と後付行李(あとづけごおり)と呼ぶ2つの包みを体のおなか部分と背中の部分と、荷物を背負う形で身につけます。
そして手には、坐禅をする座布という円いクッションを持つのです。
袈裟行李にはお袈裟や、仏祖の祖録、血脈などのほかに、涅槃金という道中不意の病気やけがで死ぬことがあっても他人に迷惑がかからないようにと若干お金を入れておきます。私が上山したときは、1000円と言うことでしたが、たぶん今もおなじ金額だと思われます。修行中で亡くなった場合、その涅槃金によって葬儀をまかなうお金。禅の修行は、命をかけたものである爲、その覚悟がなければならないと。
永平寺は、れっきとした縦社会であります。修行している年数はもちろんのこと、同じ年に修行僧が100人いれば、一分一秒でも早く上山したものが、優位になることが事実であります。18才の青年でも、年上の人を指導することは、珍しいことではありません。
地蔵院で、全ての持ち物を、点検し、なかったものは、そこで揃えます。中には持参してこれなかったもの、間に合わないものもありますから、その場合は、各お寺の師匠さんに請求は回ってまいります。
私が上山した時も、とても寒い日で、雪が降る日でした。そのとき出されたしょうが湯はとても体が温まるものであり、今でも忘れることが出来ません。
翌日朝、食事を取ってから、永平寺の山門に向かいます。この山門にも、木版、木の板があり、同じように3回たたきます。私のときは、同日の上山者が10人おりました。
 しかし、すぐに取り次ぐものが、でてくることはありません。2月から3月後半までは、北陸はまだまだ寒い時期であります。1時間、2時間するとだいたい修行僧を迎えにくる僧侶が出てきます。そして、山門にて仏殿に対してお拝3回します。
この山門をくぐることは、入ってくる時、または、下山をするときだけ通ることが許されます。普段は、一般の参拝者の方も見たりすることは出来ますが、柵があって通り抜けることは出来ないようになっています。
生涯、普通は2回だけくぐることが出来るのですが、中には変わった方もいらしまして、もう一度修行がしたくて、再度訪れる方も非常にまれですが、いらっしゃいます。
山門でわらじを脱いだ修行僧は、足を雑巾で拭き、修行に入る前の部屋に案内されます。全ての荷物を綺麗に整えこれと相対して正座をします。心を整えて、また待つのでありますが、また数時間待たされる。
永平寺の修行生活は今までとは違うことを知ってもらう為、また、修行生活に耐え抜くだけのしっかりとした心構えがあるかどうかをここで確かめる為でもあります。そして、修行僧の担当の僧侶が、永平寺の入門、掛搭について、真意を問うのです。
そんな問答が続いた後に、「ご開山拝登ならびに免掛搭よろしゅう」と言って修行の許しを請うのである。まず最初の試練は、1週間立て続けの坐禅であります。
この続きは、また次回と致しましょう。


上記の法話は、実際より話した法話より省略して掲載しています。

2019年02月18日

今週はお彼岸の日です!(3/18)

 今日は、春のお彼岸と曹洞宗を開かれました道元禅師様のことを折り合わせながらお話をしたいと思います。今日は、三月十八日でありまして春の彼岸入りにあたります。
 お彼岸のお中日、三月二十一日は、ほぼ真西に太陽が沈みます。この日、西に日が沈む所に極楽浄土の東の門があると言うことから、この日、太陽を拝むと、遠い十万億土を隔てた浄土の入り口を拝むことになり、極楽浄土が最も近くなる日と考えられています。
昼夜等分で長い短いがない真ん中の世界、中道、この時に仏事を行なうと良いという考え方が生まれました。
 中道というのは、仏教の実践についての基本的な考えで、対立または矛盾しあう両極端の立場を離れ、両極端のどれにも偏らない中正な立場を貫くことであります。
 曹洞宗の本山であります永平寺で、私は約4年ちかく、修行僧としてつかえ、その短い時間内に、たくさんの部所に配属されました。その一つの部署、道元禅師さまの御遺骨があるところで、オンシュリシュリマカシュシュリソワカ・オンシュリシュリマカシュシュリソワカと御神体を磨くことがございました。今年は、道元禅師様が、亡くなられてから760年余りになります。
 永平寺の修行は毎日、毎日、決められたことの連続であります。たとえば、3と8が付く日は、普段掃除はしていますが、なかなか手が届かないところ、例えば、大きな棚のうしろを掃除したり、ろうそく立てなどの真鍮を磨いたりするなどの掃除をします。サンとハチで三・八清掃(サンパチセイソウ)と呼んでいます。また、頭の髪の毛をカミソリで剃る日は4・9という日に決まっています。ヨンとキュウで四・九日(シクニチ)と呼ばれています。まあ月の行事は毎日毎日めまぐるしいほどなのですが、かえってそれがいいのかもしれません。それをただ、ただ、ひたすら励むことになれてしまえばなぜか心はかえって落ち着くものであると思えてくるから不思議であります。道元禅師さまの安心(アンジン)、安心(あんしん)と書きますが、坐るということから始まっています。
 お釈迦様がお悟りを開かれたときに「父母・師僧・三宝に孝順せしむ。孝順は至道の法なり。孝を名付けて戒と為す」戒とは法則です。その国、その国の法律は他の国には通用しないけれども、仏法の戒という法則は、海を越え、民族を超えたところの法であると。
簡単に言いますと、日本国の法律は、他の国には通じないが、仏の法は、国境を超えて伝えることができるのだと。
「悉く仏性あり」という。みんなどなたも、立派な神様であり仏さまであるべき本性を備えている。どんな教えでも皆良いことをして悪いことをするなという教え以外にはないと。しかし教わるだけでは駄目で実際に良いことをして悪いことを止めなければならないのが道であり法である。教えは実行するためにあると。26代遡ったら親が何人いるのか。おとうさん、おかあさんで二人、そのお父さんお母さんを加えて六人、26代を越えたところで一億以上の先祖があればこそ、私たちが生まれてくることができるです。
道元禅師さまのお弟子の中で懐奘禅師という方がいらっしゃいます。懐奘さまは、道元禅師様に大変よくお仕えした方でございました。その方は、道元禅師さまが生きていられるときからずっと、また亡くなってからも、五十年間、自分の生涯が終わる時まで、毎日朝晩の礼拝を欠かさ無かったと伝えられています。
 現在でも永平寺では毎日、道元禅師様のご真像に向かって、朝晩お供えをし、香を焚き、お経を唱えて礼拝をしています。これは、二代目、懐奘さまの伝統が今でも生きているのです。道元禅師さまの教えを忠実に守っていく。更にそれを後世の私たちにお示し下さっています。
道元さまと懐奘さま対話文集、正法眼蔵随聞記で、道元さまはこのように言われています。「出家たるものは、恩を自分の父母に限って考えず、すべての衆生の恩を平等に父母の恩同様に深いと考え、自分が積んだ善根をすべての世界に振り向けるのであり、特別にこの世一代の、自分の父母に限定することをしないのである」と。

仏教では良いことをせよ、悪いことをするなと何度も繰り返して言う。善い行いをしておけば、善い行いがあらわれる。悪い行いをすれば、悪い形であらわれる。それは、目に見える形であらわれるかもしれないし、目で見えない形であらわれるかもしれない。良い報い、悪い報いというものは、順現報受といって、この世でした行いを今の世で受けることもあり、順次生受といって、次の世代の子供たちに現れることもある、順後次受といって第三生以降であらわれるかもしれないと、永平寺を開かれました、道元禅師さまは言っておられます。だからこそ、小さな良い行いをも大切にしていかなければならないと。
 今週は、お彼岸の日であります。ご先祖様が大切にしてきた思いを考え、はぐくんでゆく、伝えてゆく。これが私たちのつとめではないのかと思う次第であります。

 

上記の法話は、実際より話した法話より省略して掲載しています。

2019年03月18日

白山拜登と桃源郷(4/18)

 本日の法話は、永平寺での行事についてお話をします。
 永平寺に上山して4ヶ月も過ぎた頃、私は、白山拝登という白山に登る機会を得ました。曹洞宗の雲水が所持することが許される数少ない持ち物の中に「龍天軸」といわれる掛け軸があります。この掛け軸はそれぞれの雲水が学んでいるお師匠さまか、それに相当する僧侶によって「白山妙理大権現」と書かれ、それぞれの寝起きするところや高所に掛け軸を奉じて、毎朝礼拝をしています。「白山妙理大権現」といわれる神様は、富士山、立山と並んで日本三名山とされる石川県の白山に宿る神で、雲水の修行と無事を円成してくれる守護神でもあります。いまでも、永平寺の一番高いところにある建物のわきに「白山水」と呼ばれるわき水が湧いており、永平寺を開かれました道元禅師様に毎朝護献水をしております。
 雲水にとって、普段はほとんど外部に出ることができない修行なかで、広々とした大自然で登山ができることは大変うれしいことであります。最初は、まぁ、うきうきした気分で登り始めるのですが、笑い顔が、汗まみれに、次第に顔が引きつってなかには途中で座り込んでしまう者もいます。初心者向けのルートで登るとはいえ、白山は非常に険しい山であります。白山は、富山県、石川県、福井県、岐阜県の四県にまたがり、標高二七〇二メートルの高い山であります。
 雲水の服装は、衣に頭にかぶる笠、地下足袋に滑り止めの藁草履、肩掛け用の布袋と、とにかく歩きづらい服装であります。それに、山の上で法要がありますから道具を持って行く人は特に歩きづらいでしょう。しかし、下から見る雲水の隊列姿には感動いたします。きれいに連なって山を登ってゆく百名ほどの姿。歩いているというよりは、駆け上がってゆく、山を飛んで行くという表現をしたらいいのでしょうか。団体で駆け上がってゆくというのは、登れないという者でさえも登れる者の空気に包まれてしまい、気がつくといつも以上の力が発揮されてしまう。すごいんですね~。
 そうして、山頂付近の山小屋に一泊して、翌朝三時に起き、山小屋からさらに登った山頂にある奥の宮に参拝。朝のひんやりした気持ちよい空気のなか、まだ日の出前の薄暗い中を黙々と登る。頂上に着くと私たちの前に、ゆっくりと日が昇りはじめ、辺り一面を照らし始める。いつも見ているお日様に知らないうちに手を合わせてしまう私たち。
 平地で見る太陽、山頂で見る太陽はどちらも同じ太陽。いつもとちがう角度で見ると全てのものが新鮮に見える。本当はそんなことではいけないのでしょうが・・・・
 昔の古人といわれる人は、山や谷川など、自然の霊気にふれ、大いなる生命と同化することに努めました。自然と人生、あるいは、自然と人間をうたったもの、自然の永続性、人生の有限性を対比してうたったもの。自然と同化することにより生かされている不思議さを自覚し今ある我が身の有り難さに気付くのです。
 むかし、中国の詩人に「陶淵明」という人が「桃花源詩」の題目、桃源郷を記しています。その大筋はこうです。「あるところに一人の漁師が住んでいた。魚を追って川をさかのぼって行くうちに道に迷い、自分がどこにいるのかさっぱりわからなくなってしまった。あたりは雑木林ではなく一面の桃の木で、太陽の光で花は輝き、林はかぐわしい香りに包まれ、その美しいことはたとえようもなかった。なんと珍しいことだと思いながら漁師はさらに進んで行った。すると水源の山に至り、そこには小さな穴が開いていた。人一人がやっと入れるぐらいの穴で漁師は夢中でこの穴に入っていったが、やがて、ぱっと目の前の景色が開け、美しい水田の広がる村に出た。池はきれいな水をたたえ、松や竹が生い茂る平和な村、村人は仲良く暮らしていた。人々は漁師を温かく迎えてくれたので夢のような日々を過ごした。やがて漁師はふるさとに帰ってきたが、あとに再びこの里を訪ねようとしてもその道はようとして知れなかったという。この里を人々の暮らしていた地を「桃源郷」という。
 ひとりの漁師が見たものはどのようなものだったのでしょうか?ごく普通の田んぼがあり村がある、全く次元のちがう世界ではなく、同次元につながりながら異次元の世界。桃源郷は普通の村と、どこがちがうのでしょうか。「桃源郷」の世界では、親子、すなわち年をとっているとか幼いとかの序列は在っても、支配するものと支配されるものの差別がないからです。この村では、ものごとにとらわれない自由で開かれた世界があるのです。
 曹洞宗を開かれました道元禅師様は、「世情にとらわれていない時には、目に入るもの耳に開くもの身体で感ぜられるすべてのものが驚くほどにみずみずしく受けとめることができる」と云われています。踏みにじられた道ばたの花にも、その春の命を精一杯受けて咲く花に心洗われる思いがします。そんな時には一匹の虫にも生命を感じ、一本の草にも仏の声と仏の姿、ありのままを感じとることができることでしょう。私たちの心が自分の思いこみにとらわれることなく柔軟な、開かれた心にある時には、森羅万象ことごとく自然の語りかけを聞くことができるとのお示しでもあろうと思います。

2019年05月14日

ご縁1(5/18)

今日は「ご縁」という題目で少しお話をさせて頂きます。
人と人とのめぐり合わせは、千差万別でございます。
私は、この地を離れて、東京に4年、福井県の永平寺に4年、そこからいろいろ紆余曲折を経まして、平成二十年の秋に住職としての儀式、晋山式を行い、今現在に至ります。その間には、たくさんの人たちとのご縁がございました。
 平成六年の春に永平寺に上山し同期生が百人ほど。寝食を共にし、一年後には7割の方が去って行く。去って行く年の春には又新たに百人ほどの修行の者が入ってくる。4年もいれば五百人ほどの人たちとの、ご縁が出来ます。特に仏のご加護によって結ばれたもの、めぐり合わせを私たちは仏縁と呼んでいます。
 その、仏縁によって、知多半島全域と西三河の曹洞宗の青年僧侶の会長を二年間やらして頂いた時期がございました。その二年間には、十年に一度しかまわってこない、愛知、岐阜、三重、静岡、東海四県合同の大会の主催幹事が回ってきまして、キャパ、いわゆる収容人数が二千人ほどある会場にて催し物をする予定でおりました。すでに、出し物や講演の方も決まる一方、その年の三月十一日に東日本大震災が起こりました。テレビでは、コンビナートが炎上し、十メートル以上ある堤防を津波が乗り越え、家屋を飲み込んでいく。海岸から押し寄せる津波。沖合から四キロもあるところの高速道路が防波堤となってやっとのことで津波を遮り、仙台の市街地までとは至らなかった。地震発生時には高速道路は封鎖され、津波と気づき車で逃げ、封鎖を突破し高速道路に上がった者は助かり、律儀に突破しなかった者は助からなかった。
四月には、高速道路から見える風景は、内陸側は平静を取り戻し、逆に海岸線は重油などの油を含んでどす黒く、よどんだ風景を醸し出しておりました。
 この東日本大震災の発生により、秋に開催する予定であった講演を即時にキャンセルすることに決めました。各東海4県下、十ある青年会の会長に本来なら文書で通知し、連絡協議会を開いて、開催中止を決めなければならないのですが、ありがたいことに一人の会長以外を除いては、永平寺の同期生や後輩ということで電話での協議によって中止のむねを連絡。各青年会単位、又は合同によるボランティアに全力を尽くすように変更しました。
 また、全国曹洞宗青年会の本部から全国に八十ほどの青年会に、救援物資の要請があり、

炊き出しセット
  灯油バーナー、炊き出しセット(五徳、鍋、包丁、ざる、ボウル、まな板、おたま)
調味料セット
  (みそ、醤油、だし、塩、さとう)
水害対応に関する道具
  丸スコップ、角スコップ、デッキブラシ、タオル、バケツ、一輪車、高圧洗浄機

これら2セットを、3月23日必着で送ってほしいとのこと。

 福島佐川急便中継センターの局留めで送り、3月24日ボランティアのスタッフがトラックにて配送するようになっておりました。

この中の炊き出しセットの中に灯油バーナーというものが御座います。
わたしも、実際、阪神淡路大震災や福井県のナホトカ重油流出事故のボランティアに行ったときに何度か見たことがありますので、知ってはいましたが、小さいもので三万円、大きいもので五万円、そんなにするものだとは思いませんでした。
 この灯油バーナーはドラム缶でお湯が沸かせるという強者であります。
まず普通のところでは売っている代物ではありません。インターネットで検索した結果、愛知県の大治町で売っている業者が有り連絡。大きいのが2つあるというので次の日大急ぎで買いに行きました。その業者とお話をしていると本日、もう2つ入荷するとのこと。
 豊橋の同期の会長にすぐさま連絡をして「灯油バーナー手に入ったか?」
と聞くと今探してるところだといい、今日もう2つ入るらしいけど、どうする?と聞くと東三河の青年会で買うから豊橋に送ってっと。
 救援物資をみんなで手分けして集め、何とかして送る手配が出来ました。
そんな中、三月後半から4月前半ばまで私自身、いろいろ仕事が入っておりまして4月下旬に被災地に行く予定がなんとか立ちました。行き先は、宮城県。、被災した寺院のお手伝いをしてほしいと言う場所であります。
それまでにも、すでに何人かは被災地に向かい、ボランティアに従事する者がおりました。また、気持ちがあつ~いOBの方もおりまして、現地から「おまえらはいったい、いつになったら被災地にくるのか」と揶揄された事もありました。
皆さんも分かると思いますが、組織で動くには結構大変なんですね。
現地までの交通費、食事、宿泊場所、日程調整、特に大事なのは道中の安全の確保などが重要になってきます。
 青年会員になるべく負担にならないように、大会で使うはずだった予算をボランティア活動の予算に組み替えたり、また、OB会員や各ご寺院さんに資金の援助をお願いなどをして、資金を集めました。ここまでは、そうたいした問題が無かったです。
しかし、一番苦労したのは、ボランティアに行くメンバーを集めることでありました。会員約六十名、行けない理由、その理由としては、

・福島の放射能があぶないからいけない。
・家族に止められた。
・遠い。
・仕事があってお寺をあけることが出来ないなど。

人には、いろいろな事情というものがございます。
なんとか努力してどうしてもだめならわかるのですが・・・・
努力のかけらも見えない人もいる、
困っている人がいるというのに・・・非常に情けない人も残念ながらわずかにいるのが現状であります。
まあ、行くことが出来ない人は、後方支援にまわるようにと指示をしました。

私たちは宮城県の石巻市雄勝町へ向かいました。仙台市から北東に車を走らせて一時間半ぐらいの小さな港町です。

2019年06月01日

ご縁2(6/18)

 石巻市雄勝町は、山に囲まれ、硯の名産地と知られる町でもあります。隣町には、原発がある女川町、児童六十 八人が亡くなった大川小学校のある川北町があります。
 この雄勝町は、津波の被害が大きかった女川、大川小学校のどちらかの山を越えなければたどり着くことが出来ません。4月半ばまで津波の影響で道路が壊れ、自衛隊の車両も入ることが出来ませんでした。通行できた道もガタガタで、いろんなものを踏んづけて走って行かないといけない。いつパンクするのかと思うぐらいであります。
 町の中心部にやってくると、役場の建物の二階の上部には大型バスが乗っかっている。
そのバスを横目に私たちは天雄寺と言うお寺に向かいました。
禅宗のお寺というのは、わりあい小高いところ有り、このお寺も例外ではなく、海抜を測ってみましたが十五メートルはありました。扇状地なので、奥に行くほど押し寄せる波が高くなって本堂などが波にさらわれたと思われます。
震災当日、天雄寺住職は仙台市内におり難を逃れ、家族も無事とのこと。
またこの付近の小学校、中学校の生徒は常日頃から津波の訓練を受けており全員無事とのことでしたが、たまたま学校を欠席していた子は、津波にのまれ、町全体としては、二百五十人もの人々が命を落としました。
 先発隊できた私たち四人は、おもに瓦礫の撤去を行いました。翌日新たに三人加わり七人の撤去作業になりました。近くでは自衛隊の方が捜索活動をし、自衛隊と私たち以外は、人影を見ることが出来ません。
 すべての家屋は、津波に飲み込まれ、残っているのは、大きな建物、役場、小学校、中学校などの鉄筋のみ。高台にある天雄寺本堂も、すべて流され、基礎しか残っていないありさま。
奇跡的に本尊は綺麗な状態で見つかりまして、現在は仮設の本堂に安置されています。
当時は、電気や水道などのライフラインはすべて破壊され、あるのは自然にわき出る山水ぐらい。その水を使って、瓦礫の撤去と同時に、打ち上げられていた衣類を集め洗濯をすることにしました。
 さいわい旧型の2層式の洗濯機はあるということなので、持ってきたバッテリーにつなぎ洗濯をしました。山水をバケツにくみ、洗濯機の中へ。
 土や砂、塩水に浸かった衣類を洗濯機に放り込むと、忽ち水がどろどろに。
今の家電でしたらこんなことしたらあっという間に壊れてしまうかもしれません。
その他、仏壇屋さんから仏壇を寄贈したいと言う申し出があって、岩手、宮城に仏壇を運ぶなどの活動もしてきました。
そんなことを、青年会として一年間で八回被災地に趣き、そのうち五回参加させて頂きましたわたしも、延べ日数も一ヶ月程。家族の理解を得ながらボランティアに行かせて頂きました。
 皆さんのこころあたたかい気持ちが、義援金になったり、ボランティアをするという形になる。ある者は、炊き出し、音楽を奏で、温泉の湯を運び、マッサージなど施す。
どれもが人に対して優しい。みんなの優しい気持ちが形となってあらわれてくる。
 東日本大震災が起こった直後、毎日のようにラジオ、テレビで流れてた、人に対して優しいコマーシャルがありました。それは、こんなCMでした。

 電車の中。
 3人の男子高校生。二人は座り、一人は立っており、電車内の座席はすべて埋まっている状態。席に座っていた一人の高校生はふと遠くに目をやると、妊婦さんが、両手でお腹をかかえて自分の前を通り過ぎてゆく。その女性を、座っていた高校生が目で追いかける。
 お腹が大きな女性に気がついた主婦が、スーッと席を立ちあがって、自分の座っていた席を譲ってくれました。
 その時の高校生の顔は、自分は、席を譲ってあげられなかった、なぜ席をゆずってあげれられなかったのかと、自責の念にかられた顔をしておりました。
 二人の友達と手を振って別れた後、歩道橋を登ろうとする。
階段の中腹には、腰を大きく曲げ、左手は腰の後ろにあて、右手に杖をもって、ついて、登っていくおばあちゃん。
 歩道橋を登ろうとする前に、その姿を見てふと足を止めて眺めている高校生。(マ)
一息して、階段を登り始め、その左横を通り抜け追い越していきますが、(マ)通り過ぎて何段か階段を上がってから、ふと足を止めた。
 そして、右足から、来た階段を引き返した。
 そして、手を取り、腰を押して、おばあちゃんの階段を登るお手伝いをする。
おばあちゃんは、ありがとう、ありがとう、と何度もお辞儀をする。(マ)

これには、このようなナレーションが、ついています。

「こころ」はだれにも見えないけれど
「こころづかい」は見える
「思い」は見えないけれど
「思いやり」はだれにでも見える

これは、公共広告機構、ACジャパンのCMであります。

思いやりの気持ちを持っていても、なかなか行動に移すことは難しい。しかし、その美しい気持ちは、実行してこそ、初めて意味があるということに、気づいてもらいたい。すべての人が持っている、やさしい気持ちが、たくさんのあたたかい行為となって世の中に生まれてほしいと、このCMはそう願ってつくられました。
 このCMを見てふとある人の言葉を思いだしました。
「私たちは、ただこの世の一員であるだけでなく、ただ何かをして通り過ぎるだけでなく、一人一人が素晴らしいことをするために生まれてきたと信じています。」
一九九七年、八十七才で亡くなったマザーテレサの言葉であります。
アグネス・ゴンジャというかわいらしい少女が修道女となったのは十八歳の時。彼女はやがて修道服を棄てインドの貧しい女性が着る安物のサリーをまとい、スラム街に飛び込んでいった。マザーテレサの誕生であります。
持ち物は、二枚のサリー、体を洗うバケツ、小さな小物入れだけ。
マザーテレサは、「貧しい人々の中でも、最も貧しい人々のために尽くす」、をモットーとして、世界中を駆け回りました。身長百五十センチ足らずの体のどこに、こんなエネルギーが潜んでいるのでしょうか。
 大事なのは大きな事ではない。ささやかなことだという。
あなたがちょっとほほえむだけでいい。新聞を読んであげると喜ぶ目の不自由な人も、買い物をしてあげると喜ぶ、重い病気の両親もいるでしょう。小さな事でいいのです。
大きなことではなく、今すぐ、あなたの隣の人に、何かできることはありませんか、と。

やさしい思いが、あたたかい行為となって世の中に生まれる。
これを、仏教で、徳と言います。
誰にも知られずに徳を積むことを特に隠徳といい、禅の修行の一つで、隠れた功徳を積むことであります。人に知られず、ひっそりと德を積む。われわれ凡人であると、何か善いことをすると人に知って欲しいと思う。さらには人に知ってもらうために、人にわかるように善行為を行う。陰徳というのは、そうではない。誰にも知られず、ただそのやった善行の功徳を転じて一切のものに向けて差し向ける。誰にみとめられるものでもない。誰がほめてくれるわけでもない、そんなことをすべて取っ払って、ひたすら徳を積む。功徳を積むのも自分の人格を高めるためにするのではない。一切衆生、生きとし生けるもののために。自分の積んだ功徳を他に向けること、これが大切であります。

2019年07月01日