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永平寺での修行(2/18)

いまから二十五年ほど前のことであります。平成六年三月九日。私は、福井県にあります大本山永平寺に修行の為に上山しました。
 一般社会に入学・入社があるように、雲水達、修行僧達の永平寺安居、安居とは一定期間そこに留まり集中的に修行することでありますが、毎年、2月後半から4月前半までに上山が許されます。この時期になりますと例年百名ちょっとの新しい修行僧が永平寺にやってまいります。最近は、少子化のため、去年は60名ほどの修行僧が永平寺に安居しました。学校を卒業した寺院のお弟子さんたちがほとんどでありますが、中には仕事を辞めて出家を志すもの、寺の住職ではあるのだけれども、永平寺に安居歴がなくて定年退職を機に、修行を志す60を過ぎた人、また、華道や茶道の家元など、とてもバラエティーにとんでいます。

永平寺の雲水になるには、あらかじめ僧堂に安居する志願状、掛搭(かた)志願状を提出して許可を得なければなりません。その許可を得て、「あなたは、この日に地蔵院というところに来てください」という通知がやってまいります。この地蔵院と言うところは、永平寺のすぐ門前にあるお堂であります。この地蔵院と言うところにまずおもむき、木版を三下します。三下したらそのままずっと外で直立不動にて延々と待ち続けます。早いと一時間ぐらい遅いと二時間ぐらいでしょうか。そこで係りの者が訪ねます。「尊公は此処に何をしに来た?」と、おのおの訪ねられるわけであります。たとえば、「道元禅師さまの法を学びにまいりました」なら、的を得ているのですが、中には、的を得ない回答があり、そのような回答をすると、「帰れ」などと言って長く立たされる者、または帰ってしまうものもいます。
地蔵院の中に入ると、すぐさま座布に座り、坐禅を始めます。そして、当日の上山者が全員集まると、荷物点検が始まります。余分なものは持っていないか、修行以外の一切の持ち物は全て取り上げてしまわれます。今現在は、いらないものすべて袋や段ボールに入れ自分の師匠のところに送り返されます。また多少の現金は、各自の口座を用意して、半年が過ぎるまで永平寺のほうで管理されます。
修行に来る時は、必要最低限の現金しか持ってきてはいけないことになっているので、ほとんどの人は、小銭ぐらいが残るのですが、中には、途方もない金額を持たされる人もいるようで、あきれてしまう人もいます。
雲水は、昔ながらの装束に身をかためて、上山します。
上山スタイルというものがあり、その身支度には、上げ手巾という、黒の衣をまくし上げた着方があります。そして、足に脚絆(きゃはん)、手には手甲(てっこう)、そして、素足にわら草履。頭には、網代笠、肩には、袈裟行李(けさごうり)と後付行李(あとづけごおり)と呼ぶ2つの包みを体のおなか部分と背中の部分と、荷物を背負う形で身につけます。
そして手には、坐禅をする座布という円いクッションを持つのです。
袈裟行李にはお袈裟や、仏祖の祖録、血脈などのほかに、涅槃金という道中不意の病気やけがで死ぬことがあっても他人に迷惑がかからないようにと若干お金を入れておきます。私が上山したときは、1000円と言うことでしたが、たぶん今もおなじ金額だと思われます。修行中で亡くなった場合、その涅槃金によって葬儀をまかなうお金。禅の修行は、命をかけたものである爲、その覚悟がなければならないと。
永平寺は、れっきとした縦社会であります。修行している年数はもちろんのこと、同じ年に修行僧が100人いれば、一分一秒でも早く上山したものが、優位にはたらくことがおおいのは事実であります。18才の青年でも、年上の人を指導することは、珍しいことではありません。
地蔵院で、全ての持ち物を、点検し、なかったものは、そこで揃えます。中には持参してこれなかったもの、間に合わないものもありますから、その場合は、各お寺の師匠さんに請求は回ってまいります。
私が上山した時も、とても寒い日で、雪が降る日でした。そのとき出されたしょうが湯はとても体が温まるものであり、今でも忘れることが出来ません。
翌日朝、食事を取ってから、永平寺の山門に向かいます。この山門にも、木版、木の板があり、同じように3回たたきます。私のときは、同日の上山者が10人おりました。
 しかし、すぐに取り次ぐものが、でてくることはありません。2月から3月後半までは、北陸はまだまだ寒い時期であります。1時間、2時間するとだいたい修行僧を迎えにくる僧侶が出てきます。そして、山門にて仏殿に対してお拝3回します。
この山門をくぐることは、入ってくる時、または、下山をするときだけ通ることが許されます。普段は、一般の参拝者の方も見たりすることは出来ますが、柵があって通り抜けることは出来ないようになっています。
生涯、普通は2回だけくぐることが出来るのですが、中には変わった方もいらしまして、もう一度修行がしたくて、再度訪れる方も非常にまれですが、いらっしゃいます。
山門でわらじを脱いだ修行僧は、足を雑巾で拭き、修行に入る前の部屋に案内されます。全ての荷物を綺麗に整えこれと相対して正座をします。心を整えて、また待つのでありますが、また数時間待たされる。
永平寺の修行生活は今までとは違うことを知ってもらう為、また、修行生活に耐え抜くだけのしっかりとした心構えがあるかどうかをここで確かめる為でもあります。そして、修行僧の担当の僧侶が、永平寺の入門、掛搭について、真意を問うのです。
そんな問答が続いた後に、「ご開山拝登ならびに免掛搭よろしゅう」と言って修行の許しを請うのである。まず最初の試練は、1週間立て続けの坐禅であります。
この続きは、また次回と致しましょう。


上記の法話は、実際より話した法話より省略して掲載しています。

2019年02月18日

今週はお彼岸の日です!(3/18)

 今日は、春のお彼岸と曹洞宗を開かれました道元禅師様のことを折り合わせながらお話をしたいと思います。今日は、三月十八日でありまして春の彼岸入りにあたります。
 お彼岸のお中日、三月二十一日は、ほぼ真西に太陽が沈みます。この日、西に日が沈む所に極楽浄土の東の門があると言うことから、この日、太陽を拝むと、遠い十万億土を隔てた浄土の入り口を拝むことになり、極楽浄土が最も近くなる日と考えられています。
昼夜等分で長い短いがない真ん中の世界、中道、この時に仏事を行なうと良いという考え方が生まれました。
 中道というのは、仏教の実践についての基本的な考えで、対立または矛盾しあう両極端の立場を離れ、両極端のどれにも偏らない中正な立場を貫くことであります。
 曹洞宗の本山であります永平寺で、私は約4年ちかく、修行僧としてつかえ、その短い時間内に、たくさんの部所に配属されました。その一つの部署、道元禅師さまの御遺骨があるところで、オンシュリシュリマカシュシュリソワカ・オンシュリシュリマカシュシュリソワカと御神体を磨くことがございました。今年は、道元禅師様が、亡くなられてから760年余りになります。
 永平寺の修行は毎日、毎日、決められたことの連続であります。たとえば、3と8が付く日は、普段掃除はしていますが、なかなか手が届かないところ、例えば、大きな棚のうしろを掃除したり、ろうそく立てなどの真鍮を磨いたりするなどの掃除をします。サンとハチで三・八清掃(サンパチセイソウ)と呼んでいます。また、頭の髪の毛をカミソリで剃る日は4・9という日に決まっています。ヨンとキュウで四・九日(シクニチ)と呼ばれています。まあ月の行事は毎日毎日めまぐるしいほどなのですが、かえってそれがいいのかもしれません。それをただ、ただ、ひたすら励むことになれてしまえばなぜか心はかえって落ち着くものであると思えてくるから不思議であります。道元禅師さまの安心(アンジン)、安心(あんしん)と書きますが、坐るということから始まっています。
 お釈迦様がお悟りを開かれたときに「父母・師僧・三宝に孝順せしむ。孝順は至道の法なり。孝を名付けて戒と為す」戒とは法則です。その国、その国の法律は他の国には通用しないけれども、仏法の戒という法則は、海を越え、民族を超えたところの法であると。
簡単に言いますと、日本国の法律は、他の国には通じないが、仏の法は、国境を超えて伝えることができるのだと。
「悉く仏性あり」という。みんなどなたも、立派な神様であり仏さまであるべき本性を備えている。どんな教えでも皆良いことをして悪いことをするなという教え以外にはないと。しかし教わるだけでは駄目で実際に良いことをして悪いことを止めなければならないのが道であり法である。教えは実行するためにあると。26代遡ったら親が何人いるのか。おとうさん、おかあさんで二人、そのお父さんお母さんを加えて六人、26代を越えたところで一億以上の先祖があればこそ、私たちが生まれてくることができるです。
道元禅師さまのお弟子の中で懐奘禅師という方がいらっしゃいます。懐奘さまは、道元禅師様に大変よくお仕えした方でございました。その方は、道元禅師さまが生きていられるときからずっと、また亡くなってからも、五十年間、自分の生涯が終わる時まで、毎日朝晩の礼拝を欠かさ無かったと伝えられています。
 現在でも永平寺では毎日、道元禅師様のご真像に向かって、朝晩お供えをし、香を焚き、お経を唱えて礼拝をしています。これは、二代目、懐奘さまの伝統が今でも生きているのです。道元禅師さまの教えを忠実に守っていく。更にそれを後世の私たちにお示し下さっています。
道元さまと懐奘さま対話文集、正法眼蔵随聞記で、道元さまはこのように言われています。「出家たるものは、恩を自分の父母に限って考えず、すべての衆生の恩を平等に父母の恩同様に深いと考え、自分が積んだ善根をすべての世界に振り向けるのであり、特別にこの世一代の、自分の父母に限定することをしないのである」と。

仏教では良いことをせよ、悪いことをするなと何度も繰り返して言う。善い行いをしておけば、善い行いがあらわれる。悪い行いをすれば、悪い形であらわれる。それは、目に見える形であらわれるかもしれないし、目で見えない形であらわれるかもしれない。良い報い、悪い報いというものは、順現報受といって、この世でした行いを今の世で受けることもあり、順次生受といって、次の世代の子供たちに現れることもある、順後次受といって第三生以降であらわれるかもしれないと、永平寺を開かれました、道元禅師さまは言っておられます。だからこそ、小さな良い行いをも大切にしていかなければならないと。
 今週は、お彼岸の日であります。ご先祖様が大切にしてきた思いを考え、はぐくんでゆく、伝えてゆく。これが私たちのつとめではないのかと思う次第であります。

 

上記の法話は、実際より話した法話より省略して掲載しています。

2019年03月18日

白山拜登と桃源郷(4/18)

 本日の法話は、永平寺での行事についてお話をします。
 永平寺に上山して4ヶ月も過ぎた頃、私は、白山拝登という白山に登る機会を得ました。曹洞宗の雲水が所持することが許される数少ない持ち物の中に「龍天軸」といわれる掛け軸があります。この掛け軸はそれぞれの雲水が学んでいるお師匠さまか、それに相当する僧侶によって「白山妙理大権現」と書かれ、それぞれの寝起きするところや高所に掛け軸を奉じて、毎朝礼拝をしています。「白山妙理大権現」といわれる神様は、富士山、立山と並んで日本三名山とされる石川県の白山に宿る神で、雲水の修行と無事を円成してくれる守護神でもあります。いまでも、永平寺の一番高いところにある建物のわきに「白山水」と呼ばれるわき水が湧いており、永平寺を開かれました道元禅師様に毎朝護献水をしております。
 雲水にとって、普段はほとんど外部に出ることができない修行なかで、広々とした大自然で登山ができることは大変うれしいことであります。最初は、まぁ、うきうきした気分で登り始めるのですが、笑い顔が、汗まみれに、次第に顔が引きつってなかには途中で座り込んでしまう者もいます。初心者向けのルートで登るとはいえ、白山は非常に険しい山であります。白山は、富山県、石川県、福井県、岐阜県の四県にまたがり、標高二七〇二メートルの高い山であります。
 雲水の服装は、衣に頭にかぶる笠、地下足袋に滑り止めの藁草履、肩掛け用の布袋と、とにかく歩きづらい服装であります。それに、山の上で法要がありますから道具を持って行く人は特に歩きづらいでしょう。しかし、下から見る雲水の隊列姿には感動いたします。きれいに連なって山を登ってゆく百名ほどの姿。歩いているというよりは、駆け上がってゆく、山を飛んで行くという表現をしたらいいのでしょうか。団体で駆け上がってゆくというのは、登れないという者でさえも登れる者の空気に包まれてしまい、気がつくといつも以上の力が発揮されてしまう。すごいんですね~。
 そうして、山頂付近の山小屋に一泊して、翌朝三時に起き、山小屋からさらに登った山頂にある奥の宮に参拝。朝のひんやりした気持ちよい空気のなか、まだ日の出前の薄暗い中を黙々と登る。頂上に着くと私たちの前に、ゆっくりと日が昇りはじめ、辺り一面を照らし始める。いつも見ているお日様に知らないうちに手を合わせてしまう私たち。
 平地で見る太陽、山頂で見る太陽はどちらも同じ太陽。いつもとちがう角度で見ると全てのものが新鮮に見える。本当はそんなことではいけないのでしょうが・・・・
 昔の古人といわれる人は、山や谷川など、自然の霊気にふれ、大いなる生命と同化することに努めました。自然と人生、あるいは、自然と人間をうたったもの、自然の永続性、人生の有限性を対比してうたったもの。自然と同化することにより生かされている不思議さを自覚し今ある我が身の有り難さに気付くのです。
 むかし、中国の詩人に「陶淵明」という人が「桃花源詩」の題目、桃源郷を記しています。その大筋はこうです。「あるところに一人の漁師が住んでいた。魚を追って川をさかのぼって行くうちに道に迷い、自分がどこにいるのかさっぱりわからなくなってしまった。あたりは雑木林ではなく一面の桃の木で、太陽の光で花は輝き、林はかぐわしい香りに包まれ、その美しいことはたとえようもなかった。なんと珍しいことだと思いながら漁師はさらに進んで行った。すると水源の山に至り、そこには小さな穴が開いていた。人一人がやっと入れるぐらいの穴で漁師は夢中でこの穴に入っていったが、やがて、ぱっと目の前の景色が開け、美しい水田の広がる村に出た。池はきれいな水をたたえ、松や竹が生い茂る平和な村、村人は仲良く暮らしていた。人々は漁師を温かく迎えてくれたので夢のような日々を過ごした。やがて漁師はふるさとに帰ってきたが、あとに再びこの里を訪ねようとしてもその道はようとして知れなかったという。この里を人々の暮らしていた地を「桃源郷」という。
 ひとりの漁師が見たものはどのようなものだったのでしょうか?ごく普通の田んぼがあり村がある、全く次元のちがう世界ではなく、同次元につながりながら異次元の世界。桃源郷は普通の村と、どこがちがうのでしょうか。「桃源郷」の世界では、親子、すなわち年をとっているとか幼いとかの序列は在っても、支配するものと支配されるものの差別がないからです。この村では、ものごとにとらわれない自由で開かれた世界があるのです。
 曹洞宗を開かれました道元禅師様は、「世情にとらわれていない時には、目に入るもの耳に開くもの身体で感ぜられるすべてのものが驚くほどにみずみずしく受けとめることができる」と云われています。踏みにじられた道ばたの花にも、その春の命を精一杯受けて咲く花に心洗われる思いがします。そんな時には一匹の虫にも生命を感じ、一本の草にも仏の声と仏の姿、ありのままを感じとることができることでしょう。私たちの心が自分の思いこみにとらわれることなく柔軟な、開かれた心にある時には、森羅万象ことごとく自然の語りかけを聞くことができるとのお示しでもあろうと思います。

2019年05月14日