白山拜登と桃源郷(4/18)

 本日の法話は、永平寺での行事についてお話をします。
 永平寺に上山して4ヶ月も過ぎた頃、私は、白山拝登という白山に登る機会を得ました。曹洞宗の雲水が所持することが許される数少ない持ち物の中に「龍天軸」といわれる掛け軸があります。この掛け軸はそれぞれの雲水が学んでいるお師匠さまか、それに相当する僧侶によって「白山妙理大権現」と書かれ、それぞれの寝起きするところや高所に掛け軸を奉じて、毎朝礼拝をしています。「白山妙理大権現」といわれる神様は、富士山、立山と並んで日本三名山とされる石川県の白山に宿る神で、雲水の修行と無事を円成してくれる守護神でもあります。いまでも、永平寺の一番高いところにある建物のわきに「白山水」と呼ばれるわき水が湧いており、永平寺を開かれました道元禅師様に毎朝護献水をしております。
 雲水にとって、普段はほとんど外部に出ることができない修行なかで、広々とした大自然で登山ができることは大変うれしいことであります。最初は、まぁ、うきうきした気分で登り始めるのですが、笑い顔が、汗まみれに、次第に顔が引きつってなかには途中で座り込んでしまう者もいます。初心者向けのルートで登るとはいえ、白山は非常に険しい山であります。白山は、富山県、石川県、福井県、岐阜県の四県にまたがり、標高二七〇二メートルの高い山であります。
 雲水の服装は、衣に頭にかぶる笠、地下足袋に滑り止めの藁草履、肩掛け用の布袋と、とにかく歩きづらい服装であります。それに、山の上で法要がありますから道具を持って行く人は特に歩きづらいでしょう。しかし、下から見る雲水の隊列姿には感動いたします。きれいに連なって山を登ってゆく百名ほどの姿。歩いているというよりは、駆け上がってゆく、山を飛んで行くという表現をしたらいいのでしょうか。団体で駆け上がってゆくというのは、登れないという者でさえも登れる者の空気に包まれてしまい、気がつくといつも以上の力が発揮されてしまう。すごいんですね~。
 そうして、山頂付近の山小屋に一泊して、翌朝三時に起き、山小屋からさらに登った山頂にある奥の宮に参拝。朝のひんやりした気持ちよい空気のなか、まだ日の出前の薄暗い中を黙々と登る。頂上に着くと私たちの前に、ゆっくりと日が昇りはじめ、辺り一面を照らし始める。いつも見ているお日様に知らないうちに手を合わせてしまう私たち。
 平地で見る太陽、山頂で見る太陽はどちらも同じ太陽。いつもとちがう角度で見ると全てのものが新鮮に見える。本当はそんなことではいけないのでしょうが・・・・
 昔の古人といわれる人は、山や谷川など、自然の霊気にふれ、大いなる生命と同化することに努めました。自然と人生、あるいは、自然と人間をうたったもの、自然の永続性、人生の有限性を対比してうたったもの。自然と同化することにより生かされている不思議さを自覚し今ある我が身の有り難さに気付くのです。
 むかし、中国の詩人に「陶淵明」という人が「桃花源詩」の題目、桃源郷を記しています。その大筋はこうです。「あるところに一人の漁師が住んでいた。魚を追って川をさかのぼって行くうちに道に迷い、自分がどこにいるのかさっぱりわからなくなってしまった。あたりは雑木林ではなく一面の桃の木で、太陽の光で花は輝き、林はかぐわしい香りに包まれ、その美しいことはたとえようもなかった。なんと珍しいことだと思いながら漁師はさらに進んで行った。すると水源の山に至り、そこには小さな穴が開いていた。人一人がやっと入れるぐらいの穴で漁師は夢中でこの穴に入っていったが、やがて、ぱっと目の前の景色が開け、美しい水田の広がる村に出た。池はきれいな水をたたえ、松や竹が生い茂る平和な村、村人は仲良く暮らしていた。人々は漁師を温かく迎えてくれたので夢のような日々を過ごした。やがて漁師はふるさとに帰ってきたが、あとに再びこの里を訪ねようとしてもその道はようとして知れなかったという。この里を人々の暮らしていた地を「桃源郷」という。
 ひとりの漁師が見たものはどのようなものだったのでしょうか?ごく普通の田んぼがあり村がある、全く次元のちがう世界ではなく、同次元につながりながら異次元の世界。桃源郷は普通の村と、どこがちがうのでしょうか。「桃源郷」の世界では、親子、すなわち年をとっているとか幼いとかの序列は在っても、支配するものと支配されるものの差別がないからです。この村では、ものごとにとらわれない自由で開かれた世界があるのです。
 曹洞宗を開かれました道元禅師様は、「世情にとらわれていない時には、目に入るもの耳に開くもの身体で感ぜられるすべてのものが驚くほどにみずみずしく受けとめることができる」と云われています。踏みにじられた道ばたの花にも、その春の命を精一杯受けて咲く花に心洗われる思いがします。そんな時には一匹の虫にも生命を感じ、一本の草にも仏の声と仏の姿、ありのままを感じとることができることでしょう。私たちの心が自分の思いこみにとらわれることなく柔軟な、開かれた心にある時には、森羅万象ことごとく自然の語りかけを聞くことができるとのお示しでもあろうと思います。

2019年05月14日